人には自分のためだけではなく、他人のために何かしたいという気持ちがあります。偽りの自分であるエゴに支配されると人を恨んだり、妬んだり、苦しめたくなったりしてしまいますが、いくらかでも本当の自分に目覚めている人の心には、多かれ少なかれ他人の役に立ちたい、喜んでもらいたい、幸せになってもらいたいといった他人のために何かをしたいという気持ちがあると思います。ただその思いが相手を思っての純粋なものかどうかと問われると「本当にそうなのかな?」と思うこともあります。
例えば、人のためと言って行動をしているけれども疑問に思うのは、自分のやったことを自慢する人です。あるいは、相手に評価してもらわないと怒る人です。要するに「私は人のためにやってあげたんだ」と上から目線なところがあるんですね。確かに、人のためにやった行動かもしれませんが、その奥にはやったことを評価されたい、評価されてしかるべきだという思いがあって、自分のエゴを満たそうとしてやっている面があるんです。ですから、その行為にはどこか違和感があります。要するに、純粋さに欠けているように思うんですね。
では、こうした人はどうでしょう?それは自己犠牲を厭わずに、人のために行動する人です。時間的にも、体力的にも、精神的にも、ときには金銭的にも自分自身が大きな負担を抱えることになってでも、人のために尽くす。実際、映画やドラマでもこうした行動は、純粋で尊いものとして描かれてきたのではないかと思います。そして、私もこうした行動こそ純粋な愛によるものだと信じ、実際にどこまで行動できたかはわかりませんが、そのような思いで患者様に接してきたこともありました。その結果、幸いなことに治ることが困難とされてきた患者様の病気が完治したことも数々あり、それは自分にとってもかけがえない経験にもなりました。ただそうした経験を積み重ねるうちに、気がついたことがありました。自己犠牲的な行動は、そのときにはそこに自分のアイデンティティもあって集中しているので気がつきませんが、その時間が過ぎ去ってふと我に返ると、何か満たされないような気がするんです。自分自身の人生が幸せかというとそうでもないし、自分自身の人格が高まったかというとそうでもない。自己犠牲を厭わずに行動した自分自身は認められるものの、普段のありのままの自分を認められるかというとそうでもない。結局、全精力を傾けて自分の愛を相手に対して投じた一方で、自分に対しては愛を投じることができてなくて、どこかで自分の愛が枯渇しつつあったんですね。昔、読んだある本にこのようなことが書かれていました。若いときに他の人のためにばかり生きて、自分の時間を確保していない人は徐々に自分から生み出すものがなくなり、晩年は人から愛を奪うような生き方になる。確かにそうかもしれません。
さらに、私はこうしたことにも気がつきました。相手のことを思って自己犠牲を厭わずに接してきたのは確かなのですが、実はそれは自分自身の抱えている課題を相手の問題の中に投影していて、それを解決しようとすることで自分自身を癒そうとしていた側面があったのではないかと。相手に愛を与えて救わんとすることで、自分自身を救おうとしていたように思うのです。でも、それでは自分自身を救いきれなかったのです。このように振り返ると、自己犠牲的な行動のすべてがそうだとは言えませんが、全く純粋とは言い切れない部分もあるような気がします。
一方、若い頃から自分軸で、自分のやりたいことや自分を磨くことに集中した生き方をしている人がいます。いかにも人のために行動するようなこともなく、場合によっては人付き合いも悪い。別に人を害しているわけではありませんが、見方によっては自己中心とか、マイペースに見えます。ただこうした人は一定期間そのように過ごすと、信念のある人物として自己を確立してくるように思います。いつも自分で自分を認めることができており、だから自分勝手なのかというとそうではなく、その心は愛に満たされています。それは自分自身への愛でもあるのですが、それが十分に満たされると、ある時期からは人への愛も強くなってくるのです。人間の本性として、本当の自分が自然に表出された姿として、人のために行動するようになってきます。さらにその行動を見ると、全く気負いがありません。無理がなく、淡々としていて、相手や周囲からの見返りも求めようとしません。行雲流水のごとく、とてもさわやかに行動します。とても純粋に人のために行動しているように見えるのです。
このように、人のために行動するといっても、その人がエゴに支配されているのか、自己確立して本当の自分に目覚めているのかによって、その純粋さが異なります。砂漠で喉がカラカラに渇いているときには泥の混じった水を渡されても、澄み切った水を渡されても飲むでしょうし、そのことで救われるでしょうが、泥の混じった水と澄み切った水とでは明らかに差があります。人のための行動も同じで、どのような形でも相手は救われるでしょうが、助けてもらった人の心の救われ方はその純粋さによって差が生まれるような気がします。おそらく純粋であればあるほど、その愛を受けた人の心も救われ、純粋な愛によって救われた人が本当の自分に目覚めるきっかけにもなるのではないかと思います。