コラム

【摂食障害】摂食障害との出会いとあきらめ

2013年11月11日

摂食障害との出会いとあきらめ

摂食障害という言葉を初めて意識したのは、研修医として働き始めてからです。
拒食症、過食症、摂食障害…、それぞれの病気の定義を教わっても、病気の本質がどこにあるのかということはさっぱりわかりません。
雲をつかむようなイメージの中、研修医として何人かの摂食障害の患者様を担当するようになりました。

摂食障害のことをよく知らない医療者が、何とかしたいと思って真剣に関わろうとするならば、その関わり方は2つのパターンに集約されるのではないかと思います。

ひとつは、相手が“いい子”を演じて、診察の場では
「先生の言うように頑張ります」
と言いながら、その陰で病気の心にとらわれて問題行動を繰り返すといったパターン。
摂食障害の人の心がわからないと、そうした問題行動に対して「何で嘘をつくの?」「何で約束を破るの?」といった憤った気持ちになります。
そして、実際には深い理解も技術もないにもかかわらず、医者という権威を盾にして、本人に注意したり、怒ったりするだけの診察。
今思えば、振り返るのも情けなく、何の治療にもつながらない単なる“治療ごっこ”を行っていたように思います。

もうひとつのパターンは、とにかく常識的な会話が通じずに憤る診察。
「もっとご飯を食べないとダメだよ!」
「どうして隠れて下剤を飲んだりするの!」
極めて常識的な助言や指導ですが、彼らにそんな言葉を聞き入れる余地などありません。
「先生、でも、ご飯を食べたらどんどん太るんじゃないんですか?
(肋骨が浮き上がるほどにやせていても)今もこんなに太っているし、○○ちゃんの方が(実際はその子の方が体重があっても)私よりも細くて、あんなにやせています」
先生はそうやって私を太らせようとしているだけなんじゃないんですか」
こんなふうに切り返してきます。
もちろんそれに反論をしても話は全くかみ合いません。
水かけ論になって、最悪の場合、お互い相手に対して感情的になってしまいます。
すると、本人は
「やっぱり私は価値のない人間なんだ」
と思いこみ、悪循環に陥ってしまいます。

一体、どのように関わればいいのか?
当時、指導して下さっていた先生たち自身もいろいろと模索していたのだと思いますが、そうした先生たちから、具体的に納得できるような学びを得ることはできませんでした。
そのため、診察の度に行き詰まりを感じ続けていました。

さらに、当時、その病院で行っていた行動制限療法という治療法。
この療法は、その創始者のように患者様への深い理解とともにやり方に工夫を加えれば、一定の効果をもたらす可能性があります。
しかし、当時の病院のやり方には、患者様への深い理解というものは見えませんでした。

その方法というのは、安易な説明の仕方をするなら、入院と同時にあらゆる行動の自由を制限し、きちんと食事をして体重が500g増えるごとに少しずつ行動の自由を与えるといったご褒美方式の治療です。
ですから、患者さんは病気の心と向き合うというよりは、しばしばその目先のご褒美のためだけに、一時的にご飯を食べて体重を増やす努力をしました。
そのため、体重が増えても、退院して行動制限療法から解除された瞬間にすぐにご飯を食べなくなり、体重を落とし、再入院になります。
あるいは、その行動制限に耐えきれずに、病院を脱走することもあります。
実際、500g増えたから本を読んでもいいとか、部屋から出て病院の廊下を歩いてもいいとか、シャワーの時間を5分から10分にするとか、家族との面会を許可するといったものでしたから、本人にとって論理的に納得できる理由などありません。
患者さんに「体重が増えないと、どうして○○な行動をとったらダメなのか」と訊かれても、こちらからは(ほとんどは一方的にこちらが決めて押しつけたものにもかかわらず)「それは最初に決めたことでしょ」と言って、相手の気持ちを抑え込むような説得しかできませんでした。

こうした現実を見て、大学病院を離れるときには、「摂食障害は治らないものだ」と思い込み、市中の病院に異動したことを今でも思い出します。
実際には私の勉強不足もあって、一部には治っていた人もいたのだと思います。
しかし、大部分の患者さんは良くなっていなかったのが現実だっただろうと思います。
私自身、摂食障害という病気の治療に対して、最初のあきらめがこのときにありました。

 


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