コラム

2013年11月11日

人はどのように育ててほしいか?①

人は育てられるとき、どのように育ててほしいものでしょうか?

それは人によって違うでしょうし、また、時代によって違うでしょう。

50才代以上の世代では、厳しく育てられるものが当然だと思っていた人も多いでしょう。
また、そうした世代は厳しさを『拒絶』としてとらえることは少なく、ときには『愛情』としてとらえる人がいたでしょう。

個人的なエピソードをひとつお話したいと思います。
高校時代の体育の授業のことです。
雨の日になると、時折、講堂で、学年全体で屋内授業が行われることがありました。
当時の私にとっては、講堂で話を聞くなんてとても退屈なことです。
そこで私は「学年全体で行っている授業だし、出欠もとらないから、さぼってもばれないだろう」と思い、何人かの友人を誘ってしばしばエスケープをしていました。

それがあるとき、エスケープをしていた教室に、講堂にいるはずの体育の先生がやってきたのです。
「何をしているんだ!」と言われ、ばれてしまったのです。
その結果、エスケープをしたメンバーは全員、講堂の舞台に並べられました。
そして、全学年の目の前で、腹や背中を思い切り殴る、蹴るといった暴力を受けました。
今の時代では体罰と言われたかもしれませんね。

しかし、その体育の先生はこのことを学校長には報告しなかったのです。
その問題をその場だけのこととして収めてくれたのです。
私の高校はとても厳しい高校でしたから、もし報告をされたなら、少なくとも停学などの可能性はあったのではないかと思います。
それを黙っていてくれた。
翌日は殴られた痛みで体を引きずりながら登校をしたのを覚えていますが、自分が悪いことをしたのだから罰を受けるのは当然だと思いました。
むしろ、厳しさの一方で見せてくれた愛情ある行為は、今でも私の心に残り、感謝しています。

厳しく人を育てるのは難しいことです。
あの巨人軍の王や長島だって、当時の川上哲治監督は怒り方に気をつけたそうです。
長島の場合は怒られても平気で、闘志を燃やしてくるタイプだったのでみんなの前で怒り、怒られると落ち込むタイプの王に対しては、個人的に怒ったと言います。

今の時代、厳しい教育はなかなか通じません。
よほどの関係性がなければ、厳しさは単なる拒絶ととらえられ、誤解が生じかねません。

私自身、もともと体育会系の人間だったことも影響してか、厳しく関わることの多かった医者だと思います。
厳しく関わった中で深い心のつながりができて、今まで勤務してきたいくつかの病院で診察させてもらった患者さんたちが今でも相談に来てくれたり、手紙をくれたりもしています。
しかし、どの程度厳しさを持って関わるかということについて、経験を重ねるごとにその割合が少なくなってきています。
「以前は怖かったけれど、今の先生はすごくやさしい」とか、「厳しいところもあるよ」と言っても「先生がそんな、全然考えられません」と言われることもあります。
ときに厳しさも必要ですが、子どもを育てるには、それ以上に大事なことがあるということがわかってきました。

 


2013年11月11日

子どもが問題行動を起こしたとき③

では、子どもが問題行動を起こしたとき、具体的にはどのように関わればいいでしょうか?

まず、親としての物事の正邪に対する考え方は伝えるべきだと思います。
「ダメなことはダメ」と。
ただこの伝え方には2つのレベルがあります。

一般的な問題行動、すなわち、不登校やリストカット、万引き、素行の悪さなどですね。
こうしたことについて、「親としては、こうした理由でやるべきではないと思う」と自分たちの考えを伝えるのは大事なことだと思います。

ただそれを絶対に納得させようと押し付けちゃダメですね。
大体の子どもは「悪いことをしているな」とわかっています。
それでもやっているのですから、もう一度再確認させる意味で、親の考えを伝えておくのです。
親の考えを提案しておくといった感じですね。
必要以上に自分たちの考えを話し続けて、説教をしないことです。
それは全く逆効果になりますからね。

一方、厳しく話さないといけないこともあります。
本人の生死にかかわる問題、他害行為、法を犯すような行為。
これらについては、断固として厳しく話す必要があります。

具体的には、命に関わるのではないかという行為、例えば、衝動的に家の2階から飛び降りる、異常なやせにもかかわらず全く食事をとらずに低血糖発作で意識を失うなどです。
あるいは、人への暴力、性的暴行、覚醒剤などの薬物の使用などもあります。
このような自らの身を危険にし、他人に害を及ぼす行為については真剣に叱り抜かなくてはいけません。

もし、こうした行為を「まあ、いいじゃないか」と見逃したとするならば、それは優しさではありません。
教育の怠慢であり、逃げであり、愛情の欠如です。
子どもへの深い愛があるのであれば、真剣に叱らなくてはなりません。

但し、厳しく叱るときには、ダブルメッセージを意識することが大事です。
いまどきの人たちは真剣に叱るだけでは、その奥にある愛情の深さをなかなか理解できません。
「自分の人格を否定された」といったふうにだけとらえてしまいがちなのです。
言葉にしなければ、愛情がわからないのです。

ダブルメッセージとは、叱る一方で、それとは全く逆の愛情の言葉をきちんと伝えることです。
「これだけ怒っているのは、お前のことを本当に大事に思っているだ。
どうでもよければ何も言わない。
本当に愛しているから、どうしても見捨てられないから言っているんだ」

「確かに問題行動を起こしたお前自身はダメなところがあるし、問題だ。
でも、お前の心の中には絶対にダイヤモンドの心がある。
それは、お前のちょっとした行動を見ているとわかる。
心の奥には優しい気持ちがあるし、ダイヤモンドのように輝いた心があると思う。
表面的にはダメなところがあるけれど、ダイヤモンドの心こそが本当の自分だと思う。
お父さんやお母さんは絶対にそう思う」

子どもはどんな態度をとろうと、親の言葉を聞いています。
その言葉を語るときに親の目を見ています。
言葉に秘められた親の思いを感じています。
ですから、こうしたダブルメッセージを意識しながら、真剣に叱ってあげることがとても大事なことだと思います。

 


2013年11月11日

子どもが問題行動を起こしたとき②

子どもが問題行動を起こしたときには、
「基本的には感情を出さずに、淡々と対応するのが望ましい」
ように思います。
これは普段からこうしたことを学び、よほど意識しているか、心の修練ができていないと難しいことだと思います。

親の揺れない姿勢は、子どもの心に落ち着きを与えます。
当然のことながら、それは無関心というのではありませんね。
マザーテレサが述べるように、無関心は愛の反対の行為です。
愛がいっぱいで子どものことをとても思っているからこそ、表面的な問題行動で揺れないように踏ん張るんです。
そして、その心をじっと見つめるのです。

問題行動に対してあまり騒ぎ過ぎると、子どもの心はさらに揺れます。
あるいは、
“問題行動を起こせば、親の関心を惹くことができる”
と思うようになり、問題行動による疾病利得(しっぺいりとく)のようなものを子どもに与えてしまうことになります。

学校に行かない、リストカットする、万引きをするなど様々な問題行動があっても、まずは心の中でぐっと踏みとどまることが大事ではないかなと思います。

 


2013年11月11日

子どもが問題行動を起こしたとき①

子どもが問題行動を起こしたとき、どうすればいいのでしょう?

大抵の親は動揺します。
感情的になって怒るか、不安感に襲われて困惑するか、「自分の育て方が悪かったのだろうか?」と言って落ち込むか…。
それは普通のことですし、仕方ありません。

ただ子どもを自立させ、自ら生きていく力を身につけられるように導いてあげるには、ちょっと考えた方がいいかもしれません。

親が感情的になれば、子どもは「親は何もわかっていない」と思って心を閉ざすか、「自分はダメな人間なんだ」と自分自身を責めて落ち込むだけです。
親の不安が強くなれば、その親の姿を見て子どもの不安はさらに増します。
親が自分を責めて落ち込めば、子どもはそんな親を見ているのがつらくなります。
「私のせいで親に迷惑をかけている」と思うようになり、最悪の場合、「自分がいなくなれば…」などと考えて、自己存在を否定するようになります。

親がどのような態度をとるか?
どのような心を持つか?

子どもが問題行動を起こしたとき、子どもに何と言って、どのように関わるかということ以上に、親自身の心のあり方や心のコントロールがとても大切になるのです。

問題行動だけに反応して子どもに何かを言ってしまう前に、動揺する気持ちをぐっと飲み込み、心静かに子どもの話を聞き、状況を把握する。
問題行動への対応はそこからスタートです。

 


2013年11月11日

薬で心の余裕を作る方法

心療内科や精神科の治療において、薬の使い方ほど人によって思い込みの異なるものはありません。

ある人は、治療には薬が必要だと考えます。

ある人は、薬というものは体に害を与えるものだと考えます。
さらに、安定剤のようなものは一旦、飲み始めると依存して手放せなくなるかもしれない。
大体、医者というものは患者を薬漬けにしてもうけているんだ。
だから、絶対に薬を使わない治療をしてほしい。
そんなふうに考えます。

人というものは何でも極端に考えがちなんですね。
正しいか間違っているか、白か黒か、極端に考える方が簡単だからかもしれませんね。

でも、真実というものは何でもバランスの中にあります。
仏教で言えば中道、儒教で言えば中庸と言いますが、右でもなく、左でもなく、そのバランスの中に正しい考え方はあるように思います。

実際、診療の場でいろいろな方と関わっていると、何でも薬を使うという考えも、絶対に薬を使わないという考えもいずれも違うのではないかなという気がします。
大事なのは薬を使うか使わないとかではなく、
「その方に良くなっていただき、幸せな人生を取り戻していただく」
ことだと思うんですね。

私自身の基本的な考え方は、薬はないに越したことはありません。
ただ統合失調症の幻覚や妄想など、どう考えても薬以上に有効な治療手段のない症状もあります。
また、思春期医療でよく使うパターンでは、補助的にお薬を使うという考え方もあります。

本人の気持ちがいっぱいいっぱいのときには何を言っても伝わらないので、心の余裕を取り戻すのが大切です。
その余裕を取り戻し、言葉が伝わる状態にするためにお薬を飲んでいただくという方法があります。
不安が強ければ不安を和らげるお薬、同じことばかりグルグルと考えてしまうならリラックスできるお薬、あまりにイライラがひどければイライラを和らげるお薬など、こうしたお薬を飲むと一定の気持ちの余裕を取り戻せることがあります。
その効果はときに非常に大きいものがあります。
もし、お薬を飲まないで頑張ろうとすると、苦しむ時間や治療期間が非常に長引いたり、治療を軌道に乗せることが非常に難しくなったりすることもあります。

気持ちの余裕を取り戻すと、言葉が伝わりますし、自分を変えていこうとする力も出てきやすくなりますから、お薬によって治療がグンと進みます。
では、薬はずっと飲み続けないといけないのでしょうか?
それは大丈夫です。
心の状態がよくなって安定してくれば、自然と薬は必要なくなり、いずれはすべて手放せるようになります。

大事なのは、その方に良くなっていただき、幸せな人生を取り戻していただくこと。
そのために最善の方法は何かを考え、薬を使うか否かを判断するのが望ましいのではないかと思います。
ときに、心の余裕を取り戻すために、補助的に薬を使うという手段もあるというようなことも知っていただければ、より良い治療を望めるのではないかと思います。

 


本当の自分に目覚め、幸せに生きるダイヤモンドの心の医療